阪和貨物線跡を歩いてきました。
皆さん開け過ぎおめでとうございます。今年初めての更新ですね。はい
今回は12年前の2009年に廃線になった阪和貨物線跡を歩いてきました。阪和貨物線自体は杉本町〜加美〜八尾の11.3kmの路線ですが加美〜八尾は関西本線(大和路線)と重複区間になるので加美合流付近まで歩いてきました。
早速紹介
13:48 杉本町
早速ですが東口が出来ており跡がなくなっている。廃線になってから2年で作られたそうです。
阪貨第七杉本踏切跡
ここの踏切は阪和線と合流する前の最後の踏切です。また東口がなかった頃は大阪市立大学の学生に留年踏切と呼ばれていたそうです。
なせそんな呼称がついたのか?それは阪和貨物線が使われなくなり、列車が一本も走らなくなった。しかし毎日列車を走らせないと踏切などいざ臨時列車が走るとなると踏切が閉まらないや信号が変わらないとなると大変ですよね。なので1日1往復程度走行し設備の確認を目的に走らしていたようです。このサビ取り列車にかかる踏切につかまると留年するなんてジンクスが学生の間で語られていたそうです。
ちなみにサビ取りには103系や221系も使われていたそうです。末期は117系が充当してたそうです。
踏切廃止前(Wikipedia)
東口工事(Wikipedia)
図のように移動
阪貨第六杉本踏切跡
阪貨第七踏切から少し行ったところでこのように踏切もないのに''ふみきりちゅうい''と書かれた看板があります。
またまた名残が出てきました。
阪貨第五杉本踏切跡(写真不足で代用)
阪貨第四杉本踏切跡(写真不足で代用)
ゆ○ぼんに似た少年の絵が書かれています。
この第五踏切と第四踏切の間だけ敷石が残っています。奥が第五踏切
第四踏切から第三踏切に向け歩くと草や木が生い茂っています。跡と言う概念すら無い。
阪貨第三杉本踏切跡(写真不足で代用)
近くには公園、杉本霊園があります。
阪貨第二杉本踏切跡
阪貨第一杉本踏切跡
我孫子第三踏切跡
杉本第三踏切からこんな感じであびこ大橋下まで移動
14:18 あびこ大橋下到着
杉本町からゆっくり歩いてたので30分かかりました。
あびこ大橋(この下にOsaka Metro御堂筋線走っている)
我孫子第二踏切跡(写真不足で代用)
我孫子第一踏切跡(写真不足で代用)
この下にサビ取りの117系が…なんてw
あびこ大橋の下にはこんな看板残っています。
この右側に道があるのでそれに沿っていく。
こんな感じで歩いてきました。
再び廃線跡と合流
阪貨第二庭井踏切跡
再び踏切ここから
真っ直ぐいけないので学校とグラウンドを回るしかありません。(しんどかった)
回ってきました。早速こんな看板が
阪和貨物線跡には所々''西日本旅客鉄道の所有地です''と書いてあるのでおそらくまだJR西日本が持っているのでしょう。
阪貨第一庭井踏切跡
庭井第一踏切跡から少し歩くと駐車場があるのでそこから撮影
架線柱跡?があります。
こんな感じで移動
活田第二踏切跡
沿線歩き
活田第一踏切跡
ここが住吉区内最後の踏切です。
枯木第四踏切跡
ここからら住吉区内に入ります
なぜか出戸付近に見てしまう
枯木第三踏切跡
枯木第三踏切跡と枯木踏切跡の間にはポストが残っています。
枯木踏切跡
近くには公園があります
枯木第一跡
14:58 行気大橋
東住吉区から大和川を越えて松原市を結ぶ橋、行基大橋までしました。
行基大橋の下です。ここからは公園が整備されて跡形もなくなっている。
大和川東公園を歩き進める
おそらくこの公園内に富田第三踏切あったかと思われるなお富田第三踏切は廃線になる前から廃止されていたようです。
近鉄南大阪線と交差地点辛うじてここは残っている
ここが富田第一踏切跡
廃止前(Wikipedia)
富田第一踏切跡を越えていよいよ大和川の堤防沿いに沿って歩いて行きます。
ここともう一つ向こうに住道第二・住道第一踏切跡がありました。ちなみに''住道''の読み方は''すみのどう''とはよまず''すんじ''と読みます。行基大橋か矢田駅付近の地名は''住道矢田''という地名があります。
平野焼却場が見てきました。
余談ですがサムネを作っていると面白いバグが発生しました。
松 原 市 東 住 吉 区
いやいやw おかしいおかしいw
まあこの辺は飛び地なので仕方ないのかなと
15:38 平野区突入
いよいよ平野区に入りました。
ここに西瓜破踏切跡があったと思われる。
こんな所に電車が通っていたなんで考えられるか?w
大和川の遊歩道歩くのに30分はかかったね。
東住吉区を脱出したわけですが東住吉区内は大和川東公園、スーパー堤防化と跡そのものがなかったです。ちなみに阪和貨物線の廃線の要因として「国土交通省がスーパー堤防化を急がせたから廃線になった」と言う説はありますがはっきりとした根拠はないようです。
歩き進める
反対側
ごみが目立つ
またしても歩き進めてきました。ここに''川があった''と言っても納得されそうですねww
瓜破第四踏切跡
いよいよ瓜破霊園に近づいてきました。
瓜破霊園付近まで来ました。
ここからは瓜破霊園を覆うようにカーブしていきます。
ここから長吉踏切までかなり複線用地がとられています。
瓜破第三踏切跡
瓜破第一踏切跡
数年前に道路が拡張されました。
横断歩道を渡ってここからは沿って歩いて行けます。
墓地踏切
すごい名前の踏切ですね。
架線柱の後ででしょうか?
枕木?
ここまで来ました
出戸踏切
ここを左に曲がると再び瓜破霊園に行ける。
信号機の跡でしょうか?
ちなみにここから阪和貨物線の前身となる八尾空港方面に線路が伸びていました。
久々に跡看板
長吉第三踏切跡
長吉第二踏切跡
地下鉄出戸駅の駐輪場置き場まで来ました。線路が走ってた頃は上の橋を渡らないといけませんでした。
ちなみに地下鉄出戸駅はこの阪和貨物線の旅客化を見据え駅の構造をずらしたと言う経緯もあります。
長吉第一踏切跡
出戸バスターミナルを抜けてやってきました。出戸踏切跡前にもあった信号?の基礎部分があります。
また写真は撮ってないがこんな看板もある「ゴミ捨て禁止 近隣の住民が迷惑しています ごみを捨てないでください 西日本旅客鉄道株式会社 鳳保線区長」と書いてあります。やはり囲われている所は西日本の土地なんでしょうね…
長吉踏切跡
僕が思うに阪和貨物線で一番大きい踏切跡だと思っています。
竹淵踏切跡
平野区ですが''竹淵''
それはなぜがと言うと八尾市竹渕とは“淵”が違うから・・・ではなくこの路線が敷設された当時平野区はまだ大阪市に編入されておらず、中河内郡龍華村もしくは長吉村だったからみたいです。また今は“たけふち”と読みますが、昭和七年の地図では八尾市もまだ無く中河内郡龍華村竹淵(たこち)と呼ばれていたそうです。
長吉出戸公園を突きていく
出戸公園を脱出
ここに踏切があったかと…思いますが残念ながら後から整備された道路で当時は踏切がなかったそうです。
またまた沿線に沿って歩けないのでこんな感じで移動
いよいよ大詰めです平野区末端は設備が割と残っているので歩き甲斐があります。
竹渕公園の近くです。
ここで衝撃の事実、一つ場所を行き忘れてました。
仕方ない(Googleマップより引用)
撤去されている高架橋
一旦平野区を離れて八尾市に入ります、阪和貨物線は八尾市も少しだけ走ります。またここの鉄橋は撤去されていました。
また遠回りが強いられる
架線柱跡があるのも良いですね。
移動していく
このちっちゃい通るところが好きですw
反対側に移動2.2Mしかなめっちゃ低い
平野川まできました。
阪和貨物線で唯一の川を越える為の橋となっています。
1988年につけられたそうです。古いですねぇ
いよいよ国道25号線に突入しました。
たった数百mを出戸手前までこの国道25号線の為に建てられたようです。
残念ながら20年11月末にここのシンボルと言ってもいいこの高架橋が撤去されました…んー残念…
撤去前(Wikipedia)
割と好きだったんですけどねえ…高さ制限を考えると…まあ妥当なのかも…
よく見る高架橋にぶつかったらの連絡先
移動
この古い高架橋が好きです。
何故かもうないのに駐輪場に「JR高架」と記載されている。わかりやすさ重視ですかねw
国道25号線とクロスし路地に入って三つ目の道路とクロス
四つ目の道路とクロス
沿線に歩いていくとついに信号機が見えました。いよいよ加美駅が近づいてきました。
五つ目の道路交差
ここの中は声がよく響いたイメージ
着々と歩き進める
六つ目
道中単線用架線柱跡があるのも面白いですよね
七つ目だんだん低くなってきました。
ここも2.2M いよいよ大和路線と合流地点が近づいてきた証拠
八つ目
めっちゃ低い、今までで一番低いかもしれない。
ちょっと回ってきました。初めて線路が見えます。
あっちは大和路線と合流地点
南加美踏切跡
ここで初めて線路と踏切があった証拠があわられます。
線路やポスト、警報機がここには残っています。
合流地点(Wikipedia)(現在線路は撤去済み)
これでゴールです!
18:00 加美駅到着
加美駅まで移動し天王寺まで乗車し帰宅…
ほんと杉本町から約4時間あるいてきましたが疲れたと言うよう楽しかったと言う思いが強いです。これでもう後悔はありません。
やりたい人はやってください但し自己責任です。責任は一切追いかねません。
最後に… この路線旅客化計画があると少し記載しました。本当に旅客化計画はありました。杉本町から新矢田駅、瓜破駅、出戸駅と3駅設けおおさか東線新大阪方面につなげる計画でしたがバブル崩壊や都市部を通らない事で計画は中止され貨物輸送もなくなってからは特急しらはまのルートとして運行されたが1年で消滅、またその数年後には天王寺の連絡線が完成、連絡線が複線化され阪和間を結ぶ線路としては存在意義を失った、さらに追い討ちをかけられ2004年におおさか東線加美付近の工事の支障になるからと線路をぶち切られました。またその5年後には正式に廃線となりました。繋がる予定のおおさか東線に裏切られ、また紹介したように東住吉区内、大和川沿道はスーパー堤防化され跡型もない。と旅客化計画だけは一応ありました。今回はこんな感じです。ありがとうございました。